結果がともなわない時も、心乱れない自分でいられるようになれる。
こんばんは。
たっしーです。
一生懸命取り組んでも、結果がともなわないことってあるよね。
例えば、受験とか、就職とか、恋愛、スポーツなんかそう。
大人になるにつれて、思い通りにならないことが多くなる。
そういう時に、結果がともなわなかった自分をどう受け入れるか。
逆境に陥った時、今まで自分とどう向き合ってきたかが如実に表れる。
周囲にとっても自分にとっても理想的なのは、精一杯やってきたことに、自分を評価し、自己分析し、良かった点、悪かった点を把握しながら、次回または別の機会で頑張ろうと、決意を新たにすること。
あまり良くないけど、やってしまいがちなのは、過去の自分を責めること。あの時あーしていれば良かった、もっとやれた筈だっただのと考えてしまって、中々現実を受け止められなくなってしまうこと。
それは、未練がどうしようもないことは、頭ではわかっているけど、考えずにはいられない状態。「結果がともなわなかった自分」という現実を心では認めたくないけど、無理に頭で納得させようとしてる。頭と心のギャップが本人を苦しめることになる。
そして、最もダメなのは、人のせいにして、当たり散らすこと。感情の持っていき場が分からず、手あたり次第に感情をぶつける感じ。心の中は何もかも面白くない状態。
おもちゃをねだって買ってもらえなかった子供の心理と同じ状態。子供よりタチが悪いのは、他人批判の正当性をそれっぽくでっち上げて攻撃してくること。
そういう人がよく使う手が、被害者ポジションになること。被害者ポジションの人は、自分は被害者なんだから何をしても許されると思い込むんだよね。被害者と思い込んで、大げさに騒ぐんだけれど、実際は全然被害者ではなく、ただの思い込みで、行き場のない感情を振り回しているだけ。独善的で他人に感謝するという思考もどこかに行ってしまってる。
ささいなきっかけで簡単に自分を見失う人は、自分と向き合う時間が足りてないと思う。
ある人は、感情が抑制できないほどの状態を、自分を見失うほど必死で取り組んできた結果と、あたかも勲章のように表現する人がいるけど、それは違う。
感情を周りに当たり散らす行為は、どんな理由でも、自分都合な理由でしかなく、恥ずかく、精神が未成熟で幼稚な行為であることを自覚しなければならない。
そして、自分に余裕ができたら、周りを見るべき、周りに思いを馳せるべき。
みんな難しいこと、つらい時を経験し、乗り越えて生きていることが分かる。つらいのは自分だけでないということ。一人で生きている訳でなく、そういう人達がいて、そういう人達に支えられて生きているということ。周りの人の想いにも目を向け、何かを感じなければならない。
家族や他人と生活していく中で、大事な視点なので、もう一度言う。
他人に目を配れる視点をもとう。
その上で、自分の要求を主張する、わがままをいうはあり。
自分の好きなことを一方的に押し通そうとすることとは全然違う。
私も時には、「ワクワクする生き方をしよう」「もっとわがままに生きよう」など、自分で自分を幸せにする生き方を書く時に引用することもあるけど、周りに配慮できる知性を持っていることが前提で書いているよ。
自分自身と向き合わないと自分が何者か知ることもできない。
自分のやってきたこと、自分の性格、得意不得意、考え方の癖、何を目標としているのかに思いを馳せ、できればノートにも書いてみよう。
そうして、苦しんでいる自分、つらい自分にもしっかり向き合うことができたら、結果がともなわない時にも、結果がともなわない自分にも価値があると思うことができ、何があっても、心乱れない自分でいられるようになれる。
では、また。